源内先生って何者?
赤い字は展示品
発明家
発明家としての才は「天狗小僧」と呼ばれて、少年時から色々なカラクリや工夫をして人を驚かせていたと思われる。今残っている一つが「御神酒天神」掛軸である。11才の時の作と言われ、顔の部分を透明にして背後に肌色と赤色を上下に塗った紙をスライドさせて、天神さんがお酒を飲んで赤くなった、という仕掛けである。顔の部分の透明板は何を使っているのか。天神さんの絵や掛軸の表装など、カラクリ以上に巧みな才に驚かされる。
長崎遊学の後28才の時、量程器(今の万歩計)を作り、磁針器(方角を測る道具)を作っている。宝暦13年(1763)36才で平線儀(水平を出す道具)を作り、翌年には火浣布(火で洗う布・燃えない布)を創出する『火浣布略説』。
タルモメイトル(寒熱昇降器)はオランダ製の寒暖計を初めて見て、原理はすぐ判ったから簡単に作れると言って、明和5年(1768)に作り出した『日本創製寒熱昇降記』。
日本初の羅紗織は羊の飼育から始めて、安永元年(1772)成功、「国倫織」と名付ける。
安永5年(1776)11月、日本初の発電器エレキテル(摩擦静電気発生装置)を完成する。これは第2回目の長崎遊学の折、壊れたエレキテルを持ち帰り7年後に復元できたとされているが、現存する2台のエレキテルを検証してみると、単なる復元ではなく、蓄電装置・摩擦装置など構造も、外国文献とも異なる7年の試行錯誤の跡が窺がえる。
源内の考えは外国の素晴らしさは理解した上で、高価な輸入などしなくてもわが国にも有る(薬草など)、作れるということを、全国の人々に知らしたのである。源内焼の作陶法、紙で金唐革を作るなど、その柔軟な発想は数限りなくあったと思われる。
文芸家
宝暦13年(1763)36才の時、『根南志具佐』『風流志道軒傳』を風来山人というペンネームで、相次いで発刊する。その内容と文体で多くの人々を魅了し影響を与え、“戯作(江戸戯作)の開祖”と言われている(石上敏『平賀源内の文芸史的位置』)。
その評判にあやかろうと来風山人・風鈴山人など紛らわしいペンネームのみならず、偽作も出版されたようで、当時の影響の大きさを物語っている。
更に明和7年(1770)には浄瑠璃『神霊矢口渡』を作り、1月外記座で上演されされるや大請けとなる。それまでの江戸の浄瑠璃は大坂で人気のあるものを再上演するといった状態であったものを、江戸を舞台に江戸弁を取り入れ、筋書きも面白く今に上演されているほどで、「江戸浄瑠璃の開祖」とも言われている。浄瑠璃では福内鬼外というペンネームで9編作り、上演されている。
- 『木に餅の生弁(なるべん)』
- 宝暦11年(1761)※
- 『根南志具佐』5巻
- 〃 13年(1763)
- 『風流志道軒傳』5巻
- 〃 13年(1763)
- 『長枕褥合戦』
- 明和4年(1767)
- 『痿陰隠逸傳(なえまらいんいつでん)』
- 〃 5年(1768)※
- 『根無草後編』5巻
- 〃 6年(1769)
- 浄瑠璃『神霊矢口渡』
- 〃 7年(1770)
- 浄瑠璃『源氏大草紙』
- 〃 7年(1770)
- 浄瑠璃『弓勢智勇湊』
- 〃 8年(1771)
- 浄瑠璃『嫩榕葉(わかみどり)相生源氏』
- 安永2年(1773)
- 浄瑠璃『前太平記古跡鑑』
- 〃 3年(1774)
- 『里のをだ巻評』
- 〃 3年(1774)
- 『放屁論(へっぴりろん)』
- 〃 3年(1774) ※
- 浄瑠璃『忠臣伊呂波実記』
- 〃 4年(1775)
- 『天狗髑髏鑒定縁起(しゃれこうべめききえんぎ)』
- 〃 5年(1776)※
- 『放屁論後編』
- 〃 6年(1777)※
- 『菩提樹之弁』
- 〃 7年(1778)
- 『飛んだ噂の評』
- 〃 7年(1778)
- 『金の生木』
- 〃 8年(1779)
- 浄瑠璃『荒御霊(あらみたま)新田神徳』
- 〃 8年(1779)
- 浄瑠璃『霊験宮戸川』
- 〃 9年(1780)
- 浄瑠璃『実生(みばえ)源氏金王桜』
- 寛政11年(1799)
※印は『風来六々部集』所収
陶芸家
13才の頃、三好喜右衛門に本草学を学んだが、喜右衛門は漢学に造詣が深いのみならず農地開墾・池の造築改修を為し、陶磁器(小原焼)も造ったと言い、それゆえ源内も製陶の知識は早くから備わっていた。
宝暦3年(1753)長崎遊学の帰途、備後鞆之津(福山市鞆)で陶土を見つけ製陶を勧めた話は今も「源内生祠」(広島県史跡)として残っている。志度村では1738年より製陶(志度焼)が始まっており、製陶に適する土を産する富田村(さぬき市大川町富田)でも理兵衛焼が藩窯を移してきていた。
源内は長崎で中国・オランダから高価な陶磁器が輸入されるのを見て、また天草深江村の土が製陶に適しているのに気づき、時の幕府天草代官に『陶器工夫書』を提出する。それは優れた天草の陶土を使って、意匠や色釉を工夫すれば立派な陶器が出来、大いに輸出することも可能であり、国益になると進言している。これは取り上げられなかったので、次は郷里の志度で窯を築き天草の土を取り寄せる製陶計画を立てるが、これも実現できなかった。
しかし今日源内焼と呼ばれる作風を志度の陶工達に指導伝授したと思われる。甥の堺屋源吾(=脇田舜民)、志度焼を始めた赤松弥右衛門の孫の赤松松山、広瀬民山たちである。松山の子の清山、魯仙、孫の陶浜、源吾に指導を受けた三谷林叟(屋島焼)、その子孫などと讃岐の焼物の流れに大きな影響を与えた。
源内の陶法指導は讃岐にとどまらず、秋田県の阿仁焼、白岩焼、山形県の倉嶋焼にも足跡が残っている。思うに源内は秀でた陶工として一家を成したのではなく、優れた発想と実現させる手法を惜しみなく与えて、自らはもう次のことを考え、挑戦しているようである。
画家
『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』巻之六に「蔗(しょ=さとうきび)ヲ軋(きしり)テ漿ヲ取ル図」があり鳩渓山人自画としている。本草学においては真実に近い描写が必要で、『物類品隲』においては 南蘋(なんぴん)派の宋紫石に絵を描かせている。写実的な西洋画に強く惹かれたことは間違い無く、第2回目の長崎遊学の時自らが西洋画を描き、実技を身につけたと思う。それが神戸市博物館蔵の「西洋婦人図」である。 その西洋婦人の襟の青色は西洋の合成顔料=プルシアンブルーで、源内は『物類品隲』の中でベレインブラーウと言って取り上げ、自らも使用し、それが秋田蘭画、更には北斎の富嶽三十六景に使われる青色の先鞭をつけたのである。
その2年後秋田へ鉱山指導に招かれた折、角館の宿で小田野直武に西洋画の陰影法・遠近法を教える。それがきっかけで小田野直武は江戸に出て『解体新書』の挿絵を描き、西洋画法を身につけ、秋田の地に蘭画が広まるのである。
秋田藩主佐竹曙山の『画法綱領』と司馬江漢の『西洋画談』が共に源内の弟子であるところの画論から源内のそれも類推される。
南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内は居たのである。
本草家
本草学とは今の薬学、博物学。源内は13才で三好喜右衛門(讃岐阿野郡陶村(現:綾歌郡綾川町))に本草学を学ぶ。大坂で戸田旭山に、江戸へ出ては田村藍水に学ぶ(宝暦6年)。源内の発想で、藍水主催の薬品会を催す。第1~3回の薬品会出品物を『会薬譜』に記録する。
博物好きの松平頼恭公の下で相模や紀州海岸で貝を採取して『紀州産物志』『貝殻目録』を著わし、讃岐の山野にても色々採取する。
宝暦12年(1762)全国25箇所に取次所を設けるという日本で初めての全国規模での東都薬品会(物産博覧会)を開催する。全5回にわたる出品物2000種を基に『物類品隲』6巻を発刊する。
宝暦14年(1764)秩父山中にて石綿を発見し、香敷を試織、火浣布と名付けて幕府に献上する。翌明和2年『火浣布略説』を刊し、奥付「嗣出書目」に日本物産図譜への構想を示す。『物産書目』に記された如く多くの西洋の博物書を取り揃えたが、その構想は実現することなく終わったようだ。親友杉田玄白は、源内を、多くの分野に活躍していたけれど、本草家としての源内こそ本来の姿だと評価していた。
『番椒譜』は発刊前の書だが、唐辛子研究書として今尚抜群の書である。
起業家
秩父の金山事業及び鉄山事業は幕府の許可をもらい、多人数を動員して本格稼動できた事業で、いずれも休業に追い込まれたことは残念である。
しかし鉄山事業の時は休止したあと、そこから運搬のための道路・河川の改修を利用し、製鉄に縁のあった炭焼きを大々的に事業として起こした。豊富な森林資源を荒川通船を利用することにより低コストで江戸へ運ぶことを考えたこの事業は、源内の起業家としての面目躍如であり成功する筈であったが、資金不足から問屋に資本参加を頼み、当然利潤が少なくなり、熱意も無くなり尻すぼみとなる。
製陶事業は先ず幕府に取り組ませるべく、最初は天草代官に『陶器工夫書』を提出し、受け入れられないので長崎からの帰途讃岐の地で渡辺桃源(宇治屋)などに出資を呼び掛ける。それも誰も応じてくれないので再度安永4年(1775)、江戸で長崎掛りの勘定奉行や組頭に折衝している。
志度で緬羊を飼育させ、我国初の羅紗の製造に成功し(1772)、それを「国倫織(くにともおり)」と名付けて事業化を計画した。これも民間に出資者が無く、幕府勘定奉行川井越前守久敬にも進言するが無視される。しかし1800年には幕府の製絨所計画ができている。菅原櫛(源内櫛)や金唐革コピーは資本がかからない程度で家内工業として起業した。源内の作った金唐革は1830年代に大手の紙企業が取り上げ、明治になって大蔵省印刷局まで巻き込んだ輸出商品になる(田中優子『江戸の想像力』)。
プロモートで見逃せないのは、宝暦12年(1762)の東都薬品会である。奥羽・蝦夷は届かなかったであろうが、ほぼ全国に引札(広告)を配り、18国25人に産物取次所を依頼、出品は運賃江戸払いとして送ってくれれば持参しなくてよく、必ず返還する等など斬新な発想で、1300余種の品々を一挙に集めた。このことから源内は博覧会の創始者と言われている。
鉱山家
宝暦14年(1764)秩父中津川村山中で石綿を発見したが、翌年「寒水石」をはじめ金銀銅鉄・明礬・磁石なども見つけ、中島一族と組んで明和3年(1766)秋、金山事業に着手する。この時の「吹初金」・「炉甘石」の実物見本と説明書が生家へ送られている。金山事業は明和6年には休山となる。
明和8年(1771)から安永元年(1772)にかけ第2回長崎遊学の帰途、大坂に滞在し攝津多田銀銅山(現:兵庫県猪名川町)を調査・水抜き工夫をする。また大和吉野山から大峰山にかけての金峰山では試掘を計画した。
安永元年秋江戸に帰着、直ちに秩父の鉄山事業を進め、翌年春着手する。当初は鉄銭鋳造の需要で順調とみえたが、「吹方熟し申さず、行はれかね」て失敗に終わり安永3年中には休山となる。
安永2年6月29日秋田藩の要請により、鉱山師吉田理兵衛と2人で鉱山の調査・指導に江戸を出立する。院内銀山、阿仁銅山などで産銅から銀絞りを指導したり、沼館山で亜鉛を発見したりして10月19日久保田を発つまで110日余の行程であった。「凡1ヶ年2万両ばかりの国益」(菊池黄山宛書簡)が実際に出たかどうかは別にして、単に鉱山指導にとどまらず、秋田が西洋画の発祥の地(秋田蘭画)となったり、焼物にも新しい陶法を教えたりで、色々な面で大きな影響を残したことは間違いない。